再会の花、八重咲のチューリップ 

3年前、想像もしていなかった嬉しく悲しい再会に、涙が溢れました。

初めて出会った中学1年のとき、脚の手術のため長期入院しなくてはいけなくなった私は、通いたかった中学校も休学扱いになりました。
同じ敷地内に小中高校の建物があり、通路を挟んで私が入院した病院がある閉鎖的な環境だった当時、「この先どうなるのだろう」と思っていました。

周囲は車椅子や杖を使っていた人が多く、気を遣わずに話せた雰囲気の中、恋話もありました。
優しくおっとりした性格の同級生は、ほかの同級生にも好かれていました。そんな同級生が魅かれていた年上の男性は、役者さんみたいに顔が整った20代後半の社会の先生でした。

「憧れるのはわかる」と友だちに言いましたが、私は「恋心とはちょっと違うのかな」と思いました。
毎日他愛もないことで、祖父母が口喧嘩していた家庭環境だった私は、「喧嘩するなら結婚なんてしなきゃいいのに」とずっと思っていました。

恋心なんて、「ふわっ」と溶ける綿飴みたいなものだった私にとって、「恋して結婚しなくてもいい、1人のほうがマシ」と思っていました。 こんな冷めきった気持ちの私には「恋は無縁」と思っていました

2度目の脚の手術が思うような結果にならなかった私は、普通に歩けていたのに2本の杖がないと歩けなくなり、将来の夢も希望も持てなくなってしまいました。

加えて、内臓も悪くなった私は、食事制限の生活が始まりました。

周囲と食事内容が違う私は、同じ机を並べて食べるのがつらかったうえ、体力を温存するため、行動範囲も制限されました。
当時、病名は知っていたものの、母が医師から聞かされていた「もう1度発作的に内臓の炎症数値が上がると危ない」ことは知りませんでした。

そんな中、体の調子が安定した私は、普通の生活をしてもよいことになっても、気持ちは暗くどん底で、酷い耳鳴りに悩まされていました。

現在は当たり前に、精神科医やカウンセラーなど、心の相談ができる専門の人がいます。
私が入院していた当時、病気や障害を持った人たちの体をケアするベテランの看護師さんや保母さんたちが、こちらの気持ちを理解しながら、サポートしてくれました。

しかし、心が晴れることが少なく、曇っていた私は、普通の体にならず生きることも面倒で、何もしたくはありませんでした

そんなとき、悪化した病気の様子を見るために転院してきた中学2年だった男性の第一印象は、「受験が近く大変そう」でした。

福祉関係の学生さんが趣味の話や特技を披露するイベントの中に、児童たちができる範囲で披露する内容は、マンネリ化してつまらなかったです。

そんな中、数少ない普通の中学校からきた男性が新しい考えを言ってくれたおかげで、久しぶりに面白いイベントだったことを現在も覚えています。

この面白かったイベントを境に、気づくと男性の姿を目で追いかけていた私は、食事のとき横に並んだだけで、なぜかソワソワしていました。
おやつの時間にお菓子分け当番が一緒になったとき、「何個ずつ分ける?何でゼリーしか食べないの」と挨拶以外の言葉を初めて交わしました。

私が「食事制限があって食べられない」と答えたあと、少しだけ身の上話しました。
海沿いで育ち、「口調が荒い」と言われていた私は、低めの声で活舌がよく、聞き取りやすい話し方だった男性が羨ましかったと同時に、話していると気持ちが落ち着きました。

朝食やおやつの配膳当番などで一緒になったとき、少しだけ交わす会話が日々の楽しみになっていきました。

不安や暗い気持ちで迎えることが多かった私は朝が最も嫌でしたが、少し男性の顔を見るだけで、心がときめいたり、リラックスしたり、数年ぶりに気持ちが揺れ動きました。

「私にもこんな気持ちがあったのか」と驚きました。

面倒になっていた人と話すことも、少しずつ治ってきたことを感じていました。
片手で数えるほどしか話せなかった男性が卒業するまで、私はとても幸せでした。

そんな私は感謝の気持ちといつかまた会えることを願い、卒業式の当日校門の前で、八重咲のチューリップの花を手渡しました。

その後20歳になった頃、スポーツ大会のイベントでバスケットボールのデモンストレーションしている姿を見たのを最後に、会う機会が全くなかった25年の間に私は結婚しました。

会えなかった間もときどき思い出すたびに「会いたい」と思っていました。
そんなとき、病気で手術することになった私は、手術前にお世話になった方々と会っていました。

ある日突然、「○○さん亡くなったと聞きましたが、同級生ですか」と耳を疑うような話が福祉用具の業者の人から出ました。

なぜ亡くなったのか業者の人も知らず、ご両親の連絡先もわからなかったため、連絡先を知ってそうな主人の元会社の同僚に聞いてもらっても何もわかりませんでした。

当時、20cmの腫瘍をお腹に抱えていた私は、自由が利きませんでした。

卒業生の名簿が本棚にあったことを思い出した私は、名前を見つけ実家の両親に電話をかけました。電話に出たお父さんに、「6月に肺がんで亡くなった」と聞いた私は、お悔やみの言葉がすぐ言えませんでした。

あまり面識がなかったお父さんに、私は「学生時代、とてもお世話になっていた」と話しました。
肺の調子が少しおかしくなり、入院した息子さんは、10日ほどで退院する予定の直前に急変し、亡くなってしまったそうです。

「私のほうがイチかバチかの手術なのに、まだ若いのに、なぜ先に逝ってしまったのだろう」と悲しさと悔しさが込み上げてきました。

しばらくお父さんと学生の頃の話をしていると、私はふと電話口から流れてきた温かい空気に包まれました。

空気の温かさは、初めて肩を並べて食事していた学生のときに感じた温かさにそっくりでした。
姿は見えませんでしたが、確かにあのときの男性だと感じた私は、込み上げてくる涙を必死にこらえ、お父さんとの電話を切りました。

とても悲しかったこの日、私は涙が出るたびに何度も顔を洗っていました。

就寝前に顔を洗おうと洗面台にいたら、また包まれたあの温かい空気を抱きしめようとすると、さらに強い温かさを感じました。

ずっと会いたくて仕方がなかった男性と、こんな形でもあえたことは嬉しかったですが、「生きていてほしかった」と心の中で叫びながら泣きました。

私には全くなかった不思議な能力が、このときだけありました。

学生の頃、朝男性に会えることを楽しみにしながら、私は生きていました。
死ぬかもしれない手術をした私が、本当に死んだら、真っ先に男性に会うはずでした。

手術が成功した私は、まだこの世にいなければならず、自然な死でなければ、天国にいる男性に会えないでしょう。

手術は「成功した」とは言え、自分で普通の生活が全くできなくなった私は、「もう終わりにしたい」と何度も思いました。

しかし、男性がいるところに行きたい私は、きょうも生きています。
生きているときも、逝ってしまった現在も、男性は私を生かしてくれています。



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